◤鳥籠でタンデム

 

 衣擦れの音で、彼女は目覚めた。


 待ち望んでいた筈の覚醒の瞬間は、まるで永遠に続くかの如き倦怠感を身体の隅々までじわじわと行き渡らせた。ぴりぴりした痺れるような痛みは真冬の静電気によく似ていて、大切ななにものかに拒まれたような感覚で人を落ち着かなくさせる。
 これは呪いだ、と彼女は朦朧とした意識の中で呟く。生まれるより前、旧くから、その血の一滴、その肉の一塊に執拗に纏わり付いた、お前は泣きながら生きていかなくてはならないという、その惨めな一生を後悔しながら死んでいかなくてはならないという、呪い。“お前は誰に望まれるでもなく、誰を望むでもない”と、老いた魔女が云っている。“唯独りで有る孤独を、生き抜け”。
 有りもしない呪言は脳裏の奥底に沈殿し、長い昏睡によって混濁し黒い靄のかかった感覚野、その黒色に段々白みが増してゆくのを、じっと息を殺して待った。只管待ち続けるのは自分の得意分野だと、何一つ思い出せない筈の頭が知っている。これは前世の記憶なのか。私は一度死に、生まれ変わったのか。
 わたし。彼女は自分がなにものであるかを知っている。知っていた筈だ。この、為す術もない身体の隅々まで、ありとあらゆる戸棚の中に仕舞い込まれ隠された記憶が、彼女が“わたし”自身であると痛切に物語っている。その記憶と、漸く開いた眼に飛び込んできた廃工場の光景とが、彼女を遂に現実に引き戻す。


 打ち捨てられ腐敗した臓腑を晒す大天井、機械油を含んで湿った空気の胸を焼くような臭い、何処か遠くから聴こえる作業工船の重苦しい汽笛の残響、其れらとの邂逅を拒むように周囲に立ち塞がる、錆び付き赤茶けた鉄棒の群れ。暫くして、それが鉄檻の柵であることに彼女は気づいた。幽閉されている。
 いや、鳥籠と云った方が正しいのかもしれない。直径八メートル程の底床を持つ、奇妙に捻れた収容容器。ここで自分は籠の鳥だと気付き、同時に耳に入って来た微かな呻きと啜り泣きで、鳥は決して一羽では無いことを悟った。今まで妙に冷静だった自分が愚かに思えて来て、身震いする。
 少し身動きすれば直ぐに肩が触れ合うほど密着して、彼女等は牢に押し込められていた。内臓に重苦しい負担を強いる大きな不安に駆られたまま、周囲にいる人間を念入りに観察する。事務職をしていそうなスーツ姿の冴えない女性、年端も行かぬ学生服の小さな少女、化粧が半分落ちた、恐らく娼婦の女性。脅され、打ちのめされた女たち。考えなくても判るほど明快な状況。これは誘拐だ、恐らく最も悲惨な部類の。この街での信頼と油断は、死よりも過酷な終わりに直結する。ふと目を向ければ山とある、発酵肥料の屑に塗れた路地裏、安宿、コインランドリー、千鳥ヤクザの買春窟で、日常茶飯に行われている恒例行事の内の一つだ。
 人間には幾らでも用途がある。人権と倫理という二つの古びた楔を打ち砕けば、其処には膨大な可能性と限界のない担保能力が広がっている──本人以外にとっての話だが。奴隷市場への売却、血液/臓器売買、殺人コミュニティに対する直売。
 女は特に、供給の何百倍もの需要がある。どの道を進んでも、美味い商売だ。
 こんな話がある。臓器売買で片肺を失った奴隷が、転売先で肺病を患った。治癒には摘出するしか無いと医者に言われた奴隷主は、寛大なことに最安値で買い叩いた“中古”の肺を再移植させることで奴隷の命を救おうとした。こうして彼は一命を取り留めたが、それは嘗ての自分の肺であった、という話。
 嘗て誰かから聴かされた話、或いは小耳に挟んだ根拠の無い噂。それが誇張された物語に過ぎない事は判っていた。第三次世界大戦の惨禍によって旧日本から分離独立した後も、佐々峰市は目立った混乱も無く発展を遂げた事も、理解はしているつもりだった。だが、“これ”も現実だ。否定出来ない現実だ。
 死して尚空気を取り込み続ける廃工場の空洞と、機械油の粘ついた臭気と、赤茶け錆びた鉄檻が、“これは現実だ”と彼女に告げている。思考を拒む猛烈な倦怠感に抗うかの如く、歪んだ鉄骨構造の隙間から掠れた叫び声を上げ続けている。
 彼女はぎゅっと目を瞑り、荒い息を吐き、再び目を開いた。眼前に男。

「──っひ、」

 悲鳴を、堪え、男を凝視する。 痩せて、猫背、右反面に青い鱗の刺青。龍だ。男の落ち窪んだ眼下ちょうどに、ギョロリと睨みを利かせる爬虫のような眼球が二つ、恐ろしげに並んでいる。男と龍の、無言の威圧。まるでそうしなければ、何方もたちまち崩れてしまうかの様な、脆さ。危うさ。恐怖。
 男が口を開く。
「……どばりかってんじゃだぼ、あら、あらいそかねき、かねびっとんのかこら、どうもすんませねかきっ、かっ」
 涎を垂らし、微笑。喉を詰まらせたように痙攣しながら、意味不明の呻きだけはすらすらと。かきいいいんっ、かきいいいんっ、と間延びした声を発しながら、爪先立ちで檻の周りを徘徊する。きちがい、と、檻の奥で誰かが呟いた。恐慌を起こす一歩手前の、崩れかかった崖の上から聞こえるか細い悲鳴に似た、指摘。成る程そうなのかも知れない。だがそれを知った所で何になる。この血みどろのシャツを着た汗だくの男に抗する方法でも見つけられるのか。答えは無い。答えを探す必要すらも。
 汗だくの男は、いや、汗ではないのかもしれない。彼女はそれに気づいて再び男を観察する。濡れ縮んだ毛髪はべっとりと皮膚に張り付いているが、床に滴り落ちる粘性の液体は、人間の物とは到底思えない蛍光緑の輝きを放っていた。痙攣の具合は次第に悪化し、震える手は鉄格子を荒々しく掴む。恐怖の眼。
「あだっ、あだまってじゃげだた、すけてくねんてまう、それは、それはき、きびっ」
 男は滑らかに雑言を紡ぐが、しかし口は震えと出血により本来の役割を果たしていない。数秒毎に顔面に表出する微笑の間隔は段々と早まり、同時に格子を揺さぶる動きも激しくなってゆく。女達の悲鳴には絶叫で返し、──
 男の崩壊は一瞬で、その骨肉は赤黒く膨張した後、断片も残さずぼろぼろと腐れ落ちていく。最後に其処に残ったのは明らかに異常な緑色の輝きを放つ人型の網で、頭部への密集が、それが男の全身神経系の成れの果てであることを示していた。網はガクガクと震えながら奇声に似た怪音を発すると、

「奇特だな」

 何者かの溜め息と共に、爆発した。耳を劈く絶叫と発泡音を伴いながら、蛍光緑の粘液が辺り一面にぶちまけられる。その場の者は最早誰一人叫ぶことは無かった。叫んではならない、声を出してはならないことを、その瞬間に理解したのだ。死んだ男の死体の向う側に、影が一つ。
 全長3メートルを超える異様に高い背丈をぐにゃぐにゃと折り曲げながら、その影はゆっくりと女たちの鳥籠へと歩を進める。複雑な紋様が縫い込まれた乳白色の外套(或いはそれに似た何か)が、風も無いのにざわりと揺れる。
「下等な制圧種(ゴチア)の性と云おうか。まこと、人群の枝は不可思議な働きをする」
 そうして、外星の者は小首を傾げた。蕾のような頭がぱっくりと開き、勢い良く飛び出した無数の触腕と巨大な単眼が、人の子等に向けられた。


 それは好奇の眼だ。