【ショッキング・トゥ・トラブル・ダブル・ブッキング】

((
大目にみてください)



 昔の記憶が全く無いが、どうでもいいと思っている。結局最初から彼女は孤独なのだ。今の自分がいつまで「あたし」でいられるかなんて、一体誰が判るというのだろう?

 うんざりする灰色の曇り空からのどんよりとした視線を浴びながら、《中枢回路》市は油臭い夜へと沈む。これでも今日は天気が良い。雨が降らない夜は珍しい。穢れた霧や、汚い雪も。
 午後九時、喧騒溢れる磴辺区の中心地から数ブロックほど離れたホッドスコット街。ここ十年で見るみるうちに時代から取り残され、すっかり寂れてしまった街並みは、すぐ近くの繁華街の蛍光を浴びて一層もの悲しいが、同時にギラギラと眼を光らせる野獣に似た荒々しい呼吸も感じさせる。

 頑固な老人を連想させる、見た目だけは荘厳な建物の陰には、野良犬のような二十代の若者たちと、彼らに増す獣性が染み込んだ十代の子供たちが住み着くようになった。古びたアパートの空き部屋や屋根裏、略奪の傷痕が残るスーパーマーケット、もしくは下水道に集団で居を構え、至る所でつまらぬ小競り合いを起こす彼らは、この巨大な退廃の街のミニチュアだ。それがとてつもなく幼稚であることが、辛うじて子供達の救いとなる。外の世界はとても危険だ──その癖、艶かしく誘惑するのだ。
 そんな彼らの「秘密基地」の一つに、何年も前に放棄された小さな廃野球場がある。かつては住民たちが集まる場所だったのだろうが、やはりそれは昔の話。アイスクリーム・トラックに偽装した装甲車両が中央の監督席へと真っ直ぐに突っ込み、人間のDNA配列のみを破壊する有害ナノマシン搭載のマイクロボットを数キロトン単位で散布した日から、この場所の時間は止まったまま。伸び放題になった芝生だけが縦横無尽に生命を主張し、その葉脈は残留ナノマシンの影響で不気味な青色に輝く。それはさながら螢の遺骸の山、安売りされた死の残滓だった。
 以前は選手たちが走り回っていたマウントには壊れた家電製品や廃材がうずたかく積み上げられ、タワーの形状を成している。ホッドスコットが《中枢回路》市の幼稚なミニチュアなら、さしずめこれはデル・ツリーの惨めな小型模型だろうか、歪な形は哀愁すら誘わない。先端に斜めに突き刺さった巨大な黒いロッカー状の棺桶(カスケット)も、その上に枝垂れかかっているパーカー姿の少女も、何もかもが歪で、不自然なのだ。

 歪な景色に、生者の囁き。
「アスカ姉(ねえ)」
 ガラクタの山の麓から聞こえてきた声に反応し、その娘はピクリと頭を動かす。目深に被っていた野球帽を斜にずらして下を見、赤く光る猫の目を声の主に向ければ、その先には野球帽の少女よりも僅かに幼い顔立ちの少女が立っていた。

 綺麗な白いレースのワンピース(ネグリジェだろうか?)の上に安っぽいジャージを羽織り、怒ったような顔でガラクタの山を見上げている。この廃野球場の住民の一人だ。ガラクタ山の上の少女、異端審問官の石楠花アスカは欠伸を一つすると、相手に小さく手を振った。
「セイネ。──ゲトとニクロはもう寝た?」
「うん。ゲトは疲れてぐっすり。ニクロはいつも通りだよ。アスカ姉も最近ずっと外に出てばっかりだったんだから、早く寝ないと体壊すよ」
「わかってるって」
「……」
 何かを訝しむように腕を組み、疑わしげな目を向けるセイネに、アスカは不思議そうな顔をした。
「なにさ」
「ううん、何でも?」
「怪しいですな」
「何でもないって。ちょっといつもと様子が違うと思っただけ」
「そ、そうかなァ……」
 頭を野球帽越しにボリボリと掻く少女を見て、セイネは核心に触れる質問を口にした。
「お姉ちゃん、もしかして明日杜々松さんと会う?」
「へえッ!? ……そうだよ。そうだけど」
「やっぱり。今日はずっといつもよりソワソワしてたんだもん、嫌でもわかるよ。お姉ちゃん、あの人にはあまり迷惑かけない方がいいよ? 大人にしては珍しく信用できる人だけど、私心配だな」
「大丈夫大丈夫、デートの約束してるだけ! セイネが困ることないからさ!」
「……それが困るんだけどな、凄く」
「へ?」
「何でもない。早めに寝てね」
「……わかった。明日はゲトたちのこと頼むよ」
「了解。おやすみ、アスカ姉」
 セイネは一瞬躊躇うように目を逸らしながらも、笑顔を見せてから踵を返し、寝床にしているアイスクリーム・トラックへと駆けていった。それを見届けてから、アスカはニヤニヤと笑みを浮かべる。
「……へ、えへへ、マッツーとデート……一ヶ月ぶりだもんなあ、そりゃ、嬉しいもん、ね」
 身悶えするように黒いロッカーの上で揺れ動く少女。残虐で寡黙なアイアンメイデンはギョロリと濁った目で空を睨むが、やがて面倒臭そうに濁った眼を閉じる。それに構わず足を上下にばたつかせながら、アスカは嬉しさの滲む口調で小さく呟く。
「……明日かあ」
 

 ▼

 昔の記憶がしっかりあるが、それ故に全てが疎ましい。結局最初から彼女は過去に踊らされているわけだ。今の自分は「わたし」ではない。それは己自身が一番よく知っている。

 夜、幻惑的な光を四方に投げかける不動の巨塔、ジスタ行政区のデル・ツリー。《中枢回路》市の最大河川であるリノ川の中洲に突き立てるように建設されたそれは、東西南北に巨大な橋を架けて街との交通を可能にした。更にその下、地下や水底に張り巡らされた秘密のトンネルは、市警や治安部隊がショートカットとして利用している。
 その中の一つを滑らかに通過していくのは、一台の装甲パトカー。一定の間隔で斜め頭上に取り付けられた赤蛍光のライトの光に照らされ、強化合金製の車体の輝きを際立たせる。二筒の排気マフラーからは気化した合成アルコール燃料の残滓が吐き出され、パトカーの軌跡を微かに主張していた。
 車体の中で最も光を反射する防弾マジックミラー(機密保持の為、《中枢回路》市警ではガラス窓の代わりにこれが採用されている)。その奥で物憂げに外の景色を見つめているのは、切れ長のオレンジ色の瞳の少女。二桁に達しているかも定かではない幼げな体躯を厳めしい市警の厚着の制服で包んでいる彼女は、タイトなシークレットブーツを履いた脚を組み、ほんの僅かにウェーブがかった長い灰色の髪の上に制帽を目深に被っている。黒を基調とした、典型的かつ威圧的な上級刑事の格好である。窓枠に頬杖をつながら外を眺める美しい顔立ちの少女はしかし、その視線の焦点を定めていない。無論だ、外は唯の薄暗く狭いトンネルなのだから。
 物言わぬ少女の隣には、男が一人。同じく黒を基調とした《中枢回路》市警の正装ではあるものの、その制服からは警察を連想させる装飾は取り払われてどこか目立たない。更にその上から羽織った黒いロングコートのせいで、初対面の人間が彼の本職を見抜くことを非常に困難にしていた。代わりに際立って映えるのは顔全体を覆う巨大な古いペストマスクで、丸みを帯びたソフト帽と相成って人相すらも完全に隠している。男も無言だったが、人差し指を振って表出させた仮想煙草を喫煙しながら、ようやく重い口を開いた。
「久し振りだな、ボストーク
「……」
 ボストークと呼ばれた少女、つまり《中枢回路》市警上級刑事のエルスは、隣の男の言葉を無視して尚も窓の外の景色を眺める。勿論、そこには何もない。
「……相変わらずのようで何よりだ。近頃はめっきり縁が無かったからな、お前とは。特捜ではうまくやっているか? あそこには旧い知り合いが何人もいる、きっとお前の助けになって」
「戯言はその辺にしておけフラットラント。虫唾が走る」
 男の言葉を遮り、ぴしゃりと言い放つ。しかしその言葉には怒りというよりは、形容し難い虚無的な哀愁が満ち溢れていた。
 運転手のネクロノイドは機械的に運転を続ける。七色に輝く電子煙をマスクの奥から吐き出しながら、男はエルスを見ずに再び口を開いた。
「まあそう言うな、俺とお前の仲だろう。久し振りに昔話でもしようと思ったんだがな」
「貴様と語る過去など無い」
「……そうか」
 乾いた声で呟き、煙を吐き出す。互いに顔を合わせようとせず、そのまま二人は黙り込む。最高級の消音機構が備わった特注の警察車両は、そのまま暗い通路を進んでいった。三本目の仮想煙草に手をかけたところで男が再び重い口を開き、エルスに尋ねる。
「“口(マウス)”の件を調べているらしいな」
「……ああ」
「やめておいた方がいい。あれは……」
「やめると思うか」
 男は口をつぐむ。エルスが此方を凝視していることに気づいたからだ。その眼には殺気が篭っていた。全てのものに対する殺気が。
「……」
「私が、やめると思うか」
「……野暮なことを訊いたな。だが、用心に越したことはない。気をつけろ」
 軽く手を振って仮想煙草を消滅させたペストマスクの男。エルスは視線を戻し、再び窓の外へと向き直った。不意に開けた視界。夜の水底トンネルを脱し、妖しい蛍光街灯が立ち並ぶ磴辺区ホルスター街へと到達した装甲パトカーは、そのまま夜の繁華街を猛スピードで抜けていく。そんな光景を死んだ魚の目で見つめるエルスは、傍の男に聞こえぬほど小さな声で言葉を洩らす。
「……明日か」